歴史資料から見た真野
きっかけ
郷土史に興味を持つようになったきっかけは、大津北図書館で「真野のむらのきろく」を見つけ、 それが真野小学校の生徒の卒業文集であり、その指導に当たられたのが横山幸一郎先生だとわかったときである。 私は、横山先生は美術の先生だという記憶しかなかったが、そういえば家に「近江物語」という本があったという事を思い引用し、 確認をした。先生は近江の郷土史に精通しておられたという評価もあった。その後、眞野風土記、堅田郷土史といった手作りの冊子が、滋賀県立図書館に保存されていることが分かり、 県と市の図書館通いが続いた。ところが、真野についてのみ書かれた書籍は前の2冊だけで、 他の資料は、真野についてはほんの一部しか書かれていない。
確かに、小さな村は歴史の一部ではあるが、その小さな村の資料から日本全体の歴史を教えてくれるものもあるはずだと考えている。 なぜなら、歴史を作るのは人間だから。バタフライ・イフェクト(Butterfly Effect)である。
細分化された真野の支配分布
最初に疑問に思ったのは、浜自治会資料「御物成皆済目録」の署名が大津代官名になっていたことだった。 それまで、私の知識としては江戸時代各地は天領と藩に分かれており、真野も膳所藩か堅田藩、もしくは天領のどれかだと思っていた。 そこで、この浜自治会資料から天領だと理解したのだが、その後、資料(引用4)によると家田は膳所領、普門は堅田領、 大野・谷口・中・沢は堅田領の中に他領が入り込んでいるということがわかった。また、資料(引用60)では佐川は松村の殿様と書かれており、真野がいかに細分化されて支配されていたかがわかった。(ここまでが下図)

その後、国立歴史民族博物館の「旧高旧領取調帳データベース」(江戸末期)を見つけ、 そのなかに次のデータがあることがわかった。このデータに資料(引用5・61)のデータを合わせて表示。
旧村名 | 江戸初期 | 元禄11(1698)~ | 旧領名(江戸末期) | 旧石高 |
佐川村 | 旗本松村知行地 | 松村 | 大津県支配所 | 186.1500 |
(引用5・61) | 延暦寺領/元亀2年(1571)織田領/慶長旗本松村彌三郎知行地 | |||
大野村 | 大津代官支配天領 | 天領 | 大津県支配所 | 14.6200 |
大野村 | 大津代官支配天領 | 堀田 | 佐野藩領分 | 350.0590 |
(引用5・61) | 延暦寺領/元亀2年(1571)織田領/慶長7年(1602)代官小堀新助/小野宗左衛門/石川荘治郎/小野半之助/元禄5年(1692)堀田正高/堀田正頌 | |||
普門村 | 大津代官支配天領 | 堀田 | 佐野藩領分 | 521.6290 |
(引用5・61) | 延暦寺領/元亀2年(1571)織田領/代官小堀新助/小野宗左衛門/石川荘治郎/小野半之助/元禄5年(1692)堀田正高/堀田正頌 | |||
家田村 | 大津代官支配天領 | 天領 | 大津県支配所 | 7.8290 |
家田村 | 大津代官支配天領 | 本多康長 | 膳所藩領分 | 66.5510 |
家田村 | 大津代官支配天領 | 西勝寺 | 西勝寺領 | 10.0000 |
家田村 | 大津代官支配天領 | 西勝寺 | 西勝寺除地 | 1.8000 |
(引用5・61) | 延暦寺領/天正16年(1578)三好長継/元亀2年(1571)織田領/慶長7年(1602)代官小堀新助/延宝7年(1679)本多康長/本多康穰 | |||
谷口村 | 大津代官支配天領 | 新見 | 大津県支配所 | 8.0000 |
谷口村 | 大津代官支配天領 | 堀田正高 | 佐野藩領分 | 206.5320 |
谷口村 | 大津代官支配天領 | 西勝寺 | 西勝寺除地 | 2.6900 |
(引用5・61) | 天正16年(1578)三好長継/元亀2年(1571)織田領/代官小堀新助/小野宗左衛門/石川荘治郎/小野半之助/ | |||
真野村 | 建武眞野元定/永正15年(1518)淺井亮政/元亀2年(1571)明智光秀/天正10年(1582)丹羽長秀/江戸代官小野宗左衛門/石川荘治郎/小野半之助/延宝5年(1677)四村分割 | |||
真野中村 | 大津代官支配天領 | 伊東主膳天保2年(1831) | 大津県支配所 | 484.3750 |
真野中村 | 大津代官支配天領 | 堀田正高 | 佐野藩領分 | 9.6770 |
真野中村 | 大津代官支配天領 | 西勝寺 | 西勝寺除地 | 2.9270 |
真野中村 | 大津代官支配天領 | 法界寺 | 法界寺除地 | 1.3520 |
(引用5・61) | ||||
真野沢村 | 大津代官支配天領 | 神保四郎右衛門 | 大津県支配所 | 100.0000 |
真野沢村 | 大津代官支配天領 | 堀田正高 | 佐野藩領分 | 242.0230 |
真野沢村 | 大津代官支配天領 | 浄国寺 | 浄国寺除地 | 0.7150 |
(引用5・61) | 延宝5年(1677)堀田正高/堀田正頌 | |||
真野北村 | 大津代官支配天領 | 伊東主膳天保2年(1831) | 大津県支配所 | 156.7940 |
真野北村 | 大津代官支配天領 | 願生寺 | 願生寺除地 | 2.2230 |
(引用5・61) | ||||
真野浜村 | 大津代官支配天領 | 遠藤胤親・伊東主膳天保2年(1831) | 大津県支配所 | 302.6150 |
真野浜村 | 大津代官支配天領 | 西勝寺 | 西勝寺除地 | 0.3800 |
真野浜村 | 大津代官支配天領 | 正源寺 | 正源寺除地 | 1.8720 |
真野新田 | 大津代官支配天領 | 大津県支配所 | 3.1530 | |
真野浜新田 | 大津代官支配天領 | 大津県支配所 | 6.4680 | |
(引用5・61) | 代官石原清左衛門/天保14年(1843)都築金三郎/嘉永2年(1849)多羅尾久右衛門/石原清左衛門/清一郎 | |||
知行地とは大名が家臣に与えた土地 | ||||
大津県支配所とは大津代官所のことか? | ||||
遠藤三上藩 | ||||
佐野藩領分とは堀田佐野藩で堅田藩のことか?上の資料(引用4)と整合 | ||||
資料(浜68)に真野新田「検見取 高三石壱斗五升三合」とあり、上のデータと整合 | ||||
資料(浜3)に浜村「高弐百五拾三石壱斗八升」とあり、上のデータより四拾九石ほど少ない |
真野の変遷
1571年 | 元亀2年 | 真野地区は明智光秀の支配下となる | |
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1583年 | 天正11年 | 真野村が豊臣秀吉の直轄領となる | |
1634年 | 寛永11年 | 真野(浜・北・沢・中)の一部が天領として記される | |
1698年 | 元禄11年 | 真野浜の一部が三上領(遠藤氏)となる | |
1701年 | 元禄14年 | 真野浜の一部は旗本伊東氏の知行地とみえる | |
1833年 | 天保4年 | 三上領真野浜村の一部が天領となる | |
1868年 | 明治1年 | 真野浜・真野北・佐川が大津県に所属 | 真野中・真野沢は一部が大津県に所属 |
1872年 | 明治5年 | 真野(中・沢・浜・北)は普門・佐川と滋賀郡第12区となる | |
1874年 | 明治7年 | 中・沢・浜・北の四か村が合併し真野村となる | |
1889年 | 明治22年 | 家田・大野・谷口・普門・佐川と合併し真野村となる | |
1955年 | 昭和30年 | 堅田町と合併 | |
1967年 | 昭和42年 | 大津市と合併 |
真野小学校の変遷(真野小学校創立百周年記念誌をもとにして)
1875年 | 明治8年 | 榛原学校(眞野・普門・佐川)、篤誠學校(大野・谷口・家田)開設 | 近江國滋賀郡誌では榛原學校(眞野・普門・大野・佐川)119名、谷口・家田は仰木の新盛學校に27名通學とある |
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1886年 | 明治19年 | 簡易科眞野小學校設立 | |
1892年 | 明治25年 | 眞野尋常小學校と改称 | |
1893年 | 明治26年 | 補習科設置 | |
1897年 | 明治30年 | 尋常科4年に延長 | |
1901年 | 明治34年 | 高等科を併置 |