歴史資料から見た真野
私考愚考 真野北部の物語(歴史と伝承) 中野清明
真野普門の中野清明さんが真野北の冊子に載せられた文書で、参考になるところが多く全文を引用させていただく。真野北部の地勢
真野川は現在の真野、堅田平野成立に大きな貢献をしてきた川である。 川下から真野村(浜・沢・北・中) 普門、谷口、家田、大野とつづき、支流世渡川に入って佐川がある。 明治以前、これらの村は、 それぞれ独立した自治体であったが幾度か合併をくりかえして今日の大津市真野学区となった。 東流する真野川を挟む山系は150メートル前後の丘陵(湖水より70メートル程度)で200メートルは超えない。 上空から見ると低い丘陵の間に、 アバラ骨状に浅い谷が走っていた。 この谷は、よく耕やされて、段々状に水田化されていた。これを平地化してローズタウンとなった。 地図の等高線をなぞってみると、120メートルの線で、 はっきりと山地と平地に分けている。 この120メートルライン上に、北学区の各町に隣接する曼陀羅池、宮池、新池、 それに向陽公園の池とな瓢箪池があったことは特筆すべきことなのかも知れないが 瓢箪池を除く他の池は、防火、灌漑用水池として現在も大切に管理されている。 この等高線をヒントに、もう少し視点を変えてみよう。
真野の入江
うずら鳴く真野の入江の浜風に、尾花波よる秋の夕ぐれ ―俊頼-
で知られる真野の入江である。 十数年前、入江地蔵のあったところとして、北村と沢村の間に碑が建てられたが、 化石などの発堀状況からみて大昔はもっと内陸まで水に浸っていたと考えるべきだ。 湖水より10メートル程の高さのところは古代の遺跡が多い。 特に真野小学校付近の神田遺跡は有名で、古墳から奈良時代、つづいて鎌倉、安土桃山時代と幾世代にもわたって人が住んでいた形跡がある。太古ここは奥まった入江の水辺で静かな農漁村だったろうと想像される。万葉の頃〝白菅の真野の榛原手折りて"行った高市黒人夫妻の旅姿が或いはこの辺りを急いでいたかも......。 普門の村はずれ(曼陀羅山の登り口付近)に「舟付場」と呼ばれていた所があったと古老に聞いた。 今は宅地造成と圃場整備とで全く姿を変えたこの辺りは、深く窪んだ谷がつづいていた。 昔、普門から志賀町へ行く場合、この谷を渡り曼陀羅山の東中腹の道を利用するのが本道だった。 雨が降ってこの谷に水がつくと渡れないので現在の緑町付近を通り山を迂回していた。ちなみに緑町付近の古地名を「大廻り」と呼んだ。 大水が出たときだけの渡し舟の舟付場かどうか、或は湖水へもと思うと古代がいとおしく思える。 謡曲「竹生島」に出てくる真野の入江は延喜の聖代(醍醐天皇)の頃だから9世紀当初、 「うずら鳴く・・・・・・」を掲載した金葉和歌集は11世紀だが、入江はまだ美しい姿で残っていたとみられる。 地盤運動によって構成されたびわ湖岸の姿も、 真野川の土砂流動と水位低下によってどんどんと平地化していった。 古絵図の小字名には、はっきりと浦に関する古地名が等高線上に表われてきて面白い。
大村と真(新)村 (オオムラとシンムラ)
普門村には、今から千三百数十年前、朝廷の命により開拓に入ったとされる人たちの末裔を真村、 以前より土着の住民の末裔を大村と呼ばれ、事実上混住しているが、 宮座の乙名(十人衆)の選出は別、 神饌を供える祭神も別で当番神主の任期などにも差異があり、 左座、右座に別れていた。 昭和中期にこの因習は変ったが、 果たしてこの新住民は何処から来て、何処を開拓し、何をするために入植したのだろうか。 言い伝えの年数よりやや年代が上がるが雄略天皇の時、 滋賀郡に散在していた和邇部の氏族を真野郷に集住させ、 堅田港の管掌にあたらせた。 住民の立ち退いた跡は豪族大伴氏、錦織部の人たちに与え住まわせたという。 今の滋賀学区一帯であろう。当時の真野郷は極めて狭隘であり、 移住者は苦労したと思われるが、この強引な政策の裏には、何か政治的なクサミを覚えるのである。 とはいえ、今に残る曼陀羅山古墳群、春日山古墳群を造った和邇氏の力はなお強大であった。 一方で和邇部臣鳥・忍勝らが和邇氏の一族から独立(持統天皇四年-六九〇-)真野臣の氏姓があたえられて(大津市史)より一層勢力をつけたものと考えればどうだろう (神田神社<真野>社伝によると部下を率いて乗りこんだとある) 真野の姓を授けられた鳥務大肆忍勝は居館の傍にある浄地普門山を宮居と定めて 素盞鳴命を鎮祭して間野大明神として奉齎した(神田神社<普門>社伝) この神田社の本殿は南北朝時代に再建され重要文化財となっているが、横の森の中に神武遥拝所があり毎年四月、神武天皇祭と称し、村長(戸長=今では自治会長)に就任 の報告祭が行われる。このルーツは忍勝がヤマト朝廷へ真野臣になった就任の報告祭を行ったのが始めかも知れないと考えると筋がとおる。 日本のムラ社会は氏神を中心に動いているといわれる中、これは氏神には関係なく、 畝火(奈良・畝傍)の山の陵(神武天皇陵)に対し執り行われるのであり、カミヨ(神代)が今も息づいているのである。
ドショボ谷(同性坊谷)
向陽公園の池は昔の瓢箪池の名残りである。 ローズタウン開発前は、うっそうとした山林に囲まれ、何かひきつけられるような神秘さが漂い、 河童の伝説も残っていた。 この池も谷を堰きとめた用水池で、谷の名をドショボ谷と呼ばれていた。 平安時代より天台三千坊の一、同性坊が近くの丘陵にあったので、 この山をドショボ山、一帯の谷をドショボ谷とつい最近まで呼んでいた。 蓮如上人がこの地を訪れた当時、同性坊の寺務をとっていた権律師光俊が、 蓮如上人に帰依し名を慶了と改め真宗に改宗した。 慶了の出家前の子道意がこの同性坊をびわ湖畔に移した(永正元年一一五〇四)のが、浜の正源寺となる(寺伝) この谷の側斜面は団地開発前の土地台帳には十五~二十坪位のこま切れになった番地に割られ多くの所有者があった。 これらの多くは現在の浜・北村方面の方たちの先祖が住んでいたとされる。 口伝によるとこのドショボ谷に住みついた祖先たちは、 びわ湖の水がひくにつれ、徐々に谷から出て行き、 浜方面或いは堅田方面へと移住していっ(竹のはなの項参照) 同性坊の移転もこの頃かも知れない。 北村の願生寺から真直ぐに浜へ下る道があるが、 以前は大きな飛び石状の石畳が浜へ伸びていた。これはびわ湖の水位が定まらず沼地であった頃、 この石を渡りながら浜辺へ行ったといわれている(現在は舗装されている)湖岸線が定着した時、 浜村は真野の産物を出荷する港となる。浜公民館と東浦団地の間に大きな運河があり、 丸子舟(俗に帆かけ舟といった)が出入りしていた。
竹のはな(花・鼻)
戦国時代、真野の地を支配していたのは、真野臣の子孫と伝える在地の豪族真野十左ェ門元貞であった。 近江守護六角氏に属し、北村の昌法寺山(清水町)に城を構えていた。 その一の砦は、北村の小字竹のはなにあったという(大津市史)。 美空団地の造成で埋ってしまったこの地は、前述のドショボ谷の一画だった。 この竹のはなという地名はとりでを意味するという。 天台三千坊の一普門坊の跡(未発堀)と想定される処に「寺前」という字名があり、 東隣りに「竹の花」という字名があり、恐らく寺の堡塁があったのだろうと考える人もいる。 西隣りは江戸末期まで使われていた「門脇」という古地名があったことから、 相当大きな寺だったろうと想像される。 谷口町にも「竹ヶ鼻」の小字名がある。 これは天文年間頃より羽柴秀吉の肝入りで比丘尼寺として栄えた西勝寺の堡塁と考えれば地形的にうなずかれる。 前述のショボ谷にあった竹のはなから、 堅田方面へ移住していった人たちの子孫は、 現在竹端姓を名乗っている。
普門庄
地名とくに古名は昔の歴史を解くカギともいわれる。普門には庄の本という地名が 名として残っているが、これらは部落発生の本じめにあた意味を示している。 普門庄は妙法院(京都)文書に、妙法院管領の延暦寺西塔常住金剛院領としてその名が みえるが、現在の普門町との位置関係が正史では明確でない。 この庄の本という古名が、普門の庄とすれば、現真野中学校付近から神田神社を含む一帯にあったものと私考する。地形は変ってしまったが、普門村の中央を通る中通り(普門龍華道)に面し、交通の便も当時としてはよかったと考えられる。延暦寺にかかわる費用をたびたび拠出していたことは正史に見える。 飛鳥時代に創始の神田神社は延暦2年藤原百川が、承平2年平将門が手を加え (寄進)維持されてきたが、現存の本社殿となった明徳元年頃はこの荘園が大きく貢献したのかも知れない。
豪恕さん
曼陀羅山に金比羅宮を開基した人。 愛知郡松尾寺(奏荘町)の出身、比叡山延暦寺で修業し、寛政七年大僧正となる。座主に次ぐ探題となった高僧。 或る時、寺に盗賊が入るのを事前に察知、弟子に命じてメシを炊いておき、盗賊が押し入ったときにご馳走しびっくさせたそうだ。 のち、盗賊は改心して豪恕さんの弟子になった。 又ある日、近くのお婆さんから花束を貰ったが、うち何本かを返した。 この何本かはお婆さんが道すがら盗んで来たものだったとか、 豪恕上人の人徳をしのぶ言い伝えが村に残っている。 書に秀れ、一般的には上人の書を掲げておくと火災よけになるともいわれた。 明和・文化の頃、この地は大津宿の助郷に編成され、 負担が重く藩主に救米を出願したり(大津市史) 三井寺にまで借財を申し込む (馬場家文書)程経済的に疲弊していたようだ。そこで豪恕上人は古来普門村は仏教と縁が深く、曼陀羅山も由緒があるので「こんぴら」を祀ることによって、この地の繁栄と平和を念じたのだという。 普門村に十両もの大金を寄付されたこともあり、村では上人の徳を讃え、山頂に碑を建てた。文化十二年上人七十六歳(没年九十二歳)の時である。 碑の文字は豪恕上人の直筆と伝える。