歴史資料から見た真野
堅田郷土史
1.3 堅田郷土史 | 「堅田郷土史 第一輯」 高柳弘雲 著 昭和38年 平成25年(2013)8月、県立図書館で借りたものはガリ版刷りのかなり傷みの激しい冊子だった。 印刷の不明瞭なところも多く、明らかに問違いと思える記述や漢字もあった。 真野に関係のある部分だけ引用させていただく。 |
---|

《目次》
旧象時代
1 ステゴドン象とナウマン象の化石 2 堅田累層
原始時代
1 普門より石斧・石鏃・石鑓の発掘 2 普門より弥生式土器の発掘
大和時代
1 近江高天原説 2 志賀高穴穂宮と神功皇后 3 初代遣隋使小野妹子 4 真野の古墳より土器 5 春日山の古墳群 6 伝説 フナの密書
奈良時代
1 堅田の条里制 2 近江国 3 真野の入江と万葉の古歌 4 中村の観音田より古瓦
平安時代
1 大伴黒主の遺跡 2 真野の神田神社 3 菅原道真と天満宮 4 小野篁と在原業平 5 葛川の息障明王院 6 伊豆神社 7 堅田の神田神社 8 仰木平尾の満仲山 9 堅田の浮御堂 10 平治の乱と堅田 11 荘園 12 鞍掛神社 13 還来神社
鎌倉時代
1 近江の守護職佐々木氏 2 宮座 3 堅田の宮座
吉野時代
1 新田義貞と勾当内侍 2 足利尊氏と堅田 3 堅田三方
室町時代
1 中世の交通と商業 2 一休の修行地であった堅田 3 蓮如 馬場道場(本福寺)に来る 4 応仁の乱と堅田 5 足利義尚の葛川明王院参籠 6 足利義稙と堅田 7 足利義晴の亡命地 8 新智恩院の建立 9 普門の神田神社の再建 10 天満宮の再建 11 戦国時代の古城
織豊期
○ 堅田湖城物語 1 信長堅田浦に定書 2 太閤検地と堅田 3 真野十左衛門元貞と昌法寺 4 百叟船と堅田の舟大工 5 堅田の特権 6 堅田門徒
江戸時代
1 諸浦の船舶数と親郷堅田 2 関が原戦と堅田 3 堅田浦の船舶 4 堅田猟師の漁獲法 5 堅田藩 6 堅田の切支丹 7 松尾芭蕉の堅田十六夜の弁 8 堅田出身の千那と其角 9 蕪村と堅田 10 天然図画亭と一茶 11 錦絵となった近江八景 12 伊能忠敬の近江測量 13 蕃山文庫 14 幕末勤王の志士中村淡水 15 金比羅大権現 16 関屋十六景
明治時代
〇 近江国と明治維新 1 地租改正と堅田 2 区制所属町村(明治5年) 3 宗教 4 官公 5 学校 6 明治維新と堅田猟師 7 真野出身の式部長と天文学者 8 滋賀郡選出県会議員 〇 堅田町管内重要文化財
旧象時代
1 ステゴドン象とナウマン象の化石
真野小学校に現存されているのはナウマン象の臼歯の化石である。
2 堅田累層
原始時代 前2000年~紀元○
1 普門より石斧・石鏃・石鑓の発掘 | 昭和17年4月、真野小学校の校庭を整理中に石斧が倉見校長によって発見された。
石鏃は同校西側の畑より京大坪井先生に発掘され、石鑓は沢より西条喜代一氏によって発掘されている。
これらは現在真野小学校に保存されている。 これによって古代の真野浜付近に原始人が生活していたわけである。 原始人はこれらの石製の武器をもって丸木舟をあやっって湖上に漁労をなし、 又原野に動物の肉を求めて採集をしていたものと想像される。 |
---|---|
2 普門より弥生式土器の発掘 | 縄文式土器も堅田付近に必ずあると思われるがまだ発見されていない。
次の弥生式土器はその破片が普門より発掘されて、同志社大学の酒詰教授の鑑定ずみである。
又普門より漁獲用の土錘が発見されておるが、
おそらくは樹皮の繊維で網がつくられ原始民族によってびわ湖の魚がとられていたのであろう。 また、谷口付近に古代の土器が焼かれたのであろう、その釜跡らしいものも発見されている。 |
1 近江高天原説
2 志賀高穴穂言と神功皇后
3 初代遣隋使小野妹子
4 真野の古墳より土器 | 普門より祝部土器の壷・杯・高杯・?・瓶・装飾付土器が発掘されている。 馬場正明氏により直刀が発見されている。 通称まんだら山の古墳は石室たて3.8メートル、よこ1.9メートル、高さ2.5メートルの横穴式の円墳である。 (結城実誠著 眞野風土記) |
---|---|
5 春日山の古墳群 | 春日山(通称ころけ山)を中心にして天神山より谷口にかけて100以上の古墳群が散在している。 中には奥行4メートル、巾1.5メートルの玄室、奥行3メートル、巾1メートルの羨道、 高さ2.3メートルの大きい石室をもっているものもある。 これらの古墳よりはいずれも祝部土器(須恵器)が出土されるところから古墳時代後期のもので6世紀後半より7世紀前半ごろのものと思われる。 |
奈良時代 紀元710~793年
1 堅田の条里制
2 近江国
3 真野の入江と万葉の古歌 | 万葉の古歌に登場する真野の入江は遠く奈良・平安の往時は山紫水明の景勝地であったと思われる。
現在の真野水泳場より西方1キロの地点、沢、都尚一氏の田の中に1本の桜と古い地蔵堂がある。
ここが通称入江の地蔵である。
その昔は入江がここまで深く入りくんで鏡の湖面にうつったさかさ比良の暮雪と遥かにうかぶ沖の島とがみごとな調和をみせて美しかったに違いない。
近江八景の比良の暮雪といわれたのは古くは真野の入江に写ったものをいっていたのである。 当時の交通路は北陸より裏日本の沿岸航路にて敦賀で上陸し陸路山を越えて塩津に至り、 湖上輸送にて勢多(現在の瀬田)にわたり宇治川を下り、 山崎より木津川をのぼって飛鳥奈良の都を結んだ水路が中心であった。 陸路としては京都一大原一途中一真野一竹生島一対岸に渡るのが大手筋だった。 したがって奈良朝の大宮人が大原越えに真野の景勝になじんだことは想像できる。 万葉集 巻第3 高市連黒人歌 いざこども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りてゆかむ 白菅の 真野の榛原 往くさ来さ 君こそ見らぬ 真野の榛原 |
---|---|
4 中村の観音田より古瓦 | 真野の中村に観音田の地名がある。ここより奈良・平安期のものと鑑定された軒丸瓦とぬのめ瓦が発掘されている。 (眞野風土記) |
1 大伴黒主の遺跡
2 真野の神田神社 | 神田神社は嵯峨天皇弘仁3年(811)の鎮座で、祭神は彦国葦命である。
神田神社は古くはミトシロノカミノヤシロといわれた。伊勢内宮の御供田に属していた。
延喜式神名帳には近江国滋賀郡八座の中に神田神社とあり、住吉真野臣の祖先を祭神とすると記してある。 新撰姓氏録右京皇別の部に真野臣のところに次のように記録されている。 真野臣は天足彦国押人命の孫にあたる彦国葦命の子孫である。 その系統の大矢田宿祢が神功皇后の三韓征伐に従って新羅に渡り征伐後彼の地に残って鎮守将軍となった。 新羅王猶搨の女と結婚して二人の男子があった。兄を佐久命といい弟を武義命といった。 佐久命より九代目の子孫の和珥部臣鳥務大肆忍勝は部下をつれて真野村に帰国した。 持続天皇より真野臣の姓をもらった。 滋賀郡には古くより大和の春日臣の一族といわれる小野臣がいた。 この小野臣と真野臣そして春日臣とは深い関係をもっていたものと思われる。 真野の地名は墾田という意味をもっている。 真野は奈良時代は興福寺の所領であり室町期には延暦寺の荘園となった。 神田神社は天台宗鶏足院末神宮寺と称して住僧が神官を兼任していた。 真野臣と神田神社 和邇臣の一族鳥務大肆忍勝が持続天皇朱鳥4年(690)に真野姓をもらって真野に住み着いた。 そして一族の遠祖彦国葦命を主神として神田神社を建立した。 真野臣は延喜式の制に列せられていた。数戸あったうちの氏の長者を神主とした。 これをモロト仲間といった。 後宇多天皇弘安6年(1283)、鎌倉将軍惟康親王の寄進で別当神宮寺と護摩堂を創立し延暦寺の配下に属した。 伏見天皇永仁年間に神司真野氏は近江守護佐々木六角に属して神殿を改修し神田を寄付した。 織田信長の延暦寺焼打ちのとき、その災をうけて神殿も器具記録もなくなった。 明暦2年(1656)新しい神殿を造営した。 |
---|
まんだら山の同性坊の遺跡
普門のまんだら山に天台宗三千坊の一つである同性坊の遺跡がある。《ローズタウン造営で消滅》 この跡より香炉が2個発掘されている。現在真宗正源寺である。(眞野風土記) |
5 葛川の息障明王院
6 伊豆神社
7 堅田の神田神社
8 仰本平尾の満仲山
9 堅田の浮御堂
10 平治の乱と堅田
11 荘園
○普門荘 | 山門妙法院の荘園であった。荘園の証文を消失して康永3年(1344)下附願をしている。 |
---|---|
○大野荘 | 山門の妙法院の所領であった。 |
○真野荘 | 日吉神社の所領で権弥宣行坊が管理した。 |
13 還来神社
鎌倉時代 1192~1333年
1 近江の守護職佐々木氏
2 宮座
3 堅田の宮座
佐川 | 樹下神社 十人集 |
---|---|
普門 | 神田神社 真村大村 |
大野 | 河内神社 右座左座 |
谷口 | 八幡神社 右座左座 |
1 新田義貞と勾当内侍
2 足利尊氏と堅田
3 堅田三方
室町時代 紀元1338~1573年
1 中世の交通と商業
滋賀郡 真野市 粟津の市
2 一体の修行地であった堅田
3 蓮如 馬場道場(本福寺)に来る
4 応仁の乱と堅田
5 足利義尚の葛川明王院参籠
6 足利義稙と堅田
7 足利義晴の亡命地
8 新智恩院の建立
9 普門の神田神社の再建 | 普門の神田神社は建徳元年(1368)に再建修理された。 本殿は流れ造りの神社建築であって現存し重要文化財の指定を受けている。 |
---|
11 戦国時代の古城
真野城 | 真野の昌法寺山にあり。真野十左衛門の居城。佐々木六角氏に属す。《大津市真野6丁目》 |
---|
1 信長堅田浦に定書
2 太閤検地と堅田
3 真野十左衛門元貞と昌法寺 | 元亀天正の頃、真野臣の子孫真野十左衛門元貞は真野村北村昌法寺山に城をかまえ佐々木六角に属し、 浅井朝倉の連合軍と戦って敗れた。 現在昌法寺の城跡に五輪の塔があって台石に西養坊と刻んである。 |
---|
5 堅田の特権
6 堅田門徒
江戸時代 1600~1867年
関が原の戦い
1 諸浦の船舶数と親郷堅田
2 関が原戦と堅田
3 堅田浦の船舶
真野村 4艘、 4 堅田猟師の漁獲法
5 堅田藩
6 堅田の切支丹
7 松尾芭蕉の堅田十六夜の弁
8 堅田出身の千那と其角
9 蕪村と堅田
10 天然図画亭と一茶
11 錦絵となった近江八景
12 伊能忠敬の近江測量
13 蕃山文庫
14 幕末勤王の志士中村淡水
15 金比羅大権現
16 関屋十六景
1 浮御堂の涼風
2 月塚桜花 芭蕉句碑付近
3 蛇柳 幅 芭蕉句碑付近
4 堂が崎網引 平大納言時忠北国左遷のとき詠歌の地
5 此花井の清冷 この水にて酒を醸じ領主に献じた。小さい桂戸
6 満戸の井蝉 秀吉の御■であるとの口伝。
7 成秀の松 天然図画亭の庭松
8 瑞見?尾花 河村瑞軒に関係あり 林家の裏
9 音瀬の雁 観自在流■の地
10 榎本の宅地 榎木其角出生の地 風俗文選にある。
11 浅井の陳地 堅田物語にある
12 毛利の懐古 毛利冠者森六郎の納首の地(東鑑)
13 湖水蜑小舟
14 馬場嵜寄凩
15 木葉の浦千鳥
16 鏡山の月
明治時代 1868~1911年
○南荘 | 南庄村、家田村、谷口村、大野村、佐川村 |
---|---|
○真野荘 | 真野村、普門村 |
真野村 | 人口768 戸数141 反別179町7反2畝 地価89805円88銭 舟14 車14 水車4 |
---|---|
普門村 | 人口376 戸数65 反別114町5反4畝 地価34943円74銭 牛20頭 |
家田村 | 人口71 戸数15 反別38町1畝15歩 地価7238円52銭 牛6頭 水車1 |
谷口村 | 人口165 戸数30 反別61町5反1畝 地価10664円69銭 牛11頭 |
大野村 | 人口221 戸数41 反別55町3反3畝 地価21315円39銭 牛17頭 水車1 |
佐川村 | 人口155 戸数30 反別83町5反5畝24歩 地価14322円59銭 牛14頭 |
真野村 | 家田、大野、谷口、真野、普門、佐川 |
---|---|
4 官公
5 学校
榛原学校 | (明治8年6月開校)真野、沢(所在地) |
---|---|
篤誠学校 | (明治6年開校)家田(所在地)合併、簡易真野小学校(明治19年!1月) |
7 真野出身の式部長と天文学者 | 真野正源寺出身の三宮義胤(天保14年生まれ)は頼三樹三郎、
梅田雲浜らと交際があり、明治初年イギリスに渡り滞欧生活10年余、
帰朝後式部長(明治28年)となり勲功によって男爵をもらった。 中村出身の中村要(明治37年生)は京都同志社大学に学び、 京大天文学研究室で天文の研究をした。 小遊星が連星状で自転することを発見、又天体の発見は変光星1、彗星2、小遊星9。中村鏡、 反射望遠鏡製作でも名高い。 |
---|