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歴史資料から見た真野

真野のむらのきろく

 平成25年(2013)、大津市立北図書館でこの文集を見つけ、 禁帯出のため数日をかけて写本し、明らかに誤字脱字と思われる箇所を修正した。 これは文集の原本ではなく、北図書館で再編集されたもののようで、 図版等は付いていなかった。(ページ内の図版は私が作ったもの)浜地区の部分を以下に引用、原本は大津市立北図書館でご覧ください

浜のきろく

1 女の十人衆  女の年寄り十人が集まって年に4、5回位ごちそうを食べる。 これが女の十人衆。十人の中で一人死ぬと次の人が入会する。 はいったとき、みんながおめでとうと祝うことになっている。 過ぎし女の生活を反省し、死を迎える静かな年を安楽に暮らそうという意義があって、 よい会だと思っています。(上原)
2 浜のずっかい  生まれて3才になると、親戚の人を招待して甘酒を出してお祝いするという習慣は、今も続いている。 招待された人は子供の衣服、はきものを白い縄でくくってもつてくるようになっている。 白い縄や白酒を使うのは、白くなるまでという意味がこめられている。 即ち、白髪になるまで長生きせよということである。 浜のずっかいは民間伝承として興味深いと思う。(上原)
3 餅つき田  おもしろい名だ。 浜から北村、沢に行く道がたんぼの中にある。 その中央にぼくの家の田がある。ふつう餅つきの田と呼んでいる。 なぜかというと、その田の辺りは入江の堀であって、 そこからりっぱな鏡が一面出てきた。 めでたいというのでみんなが餅をついて縁起を祝ったものである。 それから餅つき田とよんでいる。(岡本)
4 浜の船入れ  浜の船入れというりっぱな港がある。 江戸時代に八幡屋善助という人が真野の漁師のために独力で比良から石を運び、 十年間の年月をかけて船入れを造った。 八幡屋は佐野さんのところで、善助さんは先祖にあたります。 その船入れができてから漁をするのが楽になり、 みんなから感謝されたということです。(岡本)
5 三宮式部長  三宮式部長は天保14年に正源寺に生まれ、 梅田雲浜、頼三樹三郎らと交わり、のち東伏見宮に随って英国に行き、 11年間外国で学び、明治13年帰朝し、28年に式部長になりました。 明治29年には男爵となりました。東京にいても故郷真野を忘れることなく、 たびたび寄進して村人に感謝されたお方です。 神田の神宮寺の鐘をとり戻したり、水害で困っている村人のために金子を贈ったりして村に尽くしました。 亡がらが帰ってきたときは一目拝もうとする村人で沿道がうずまり、 堅田から浜まで人垣が続いたといいます。 三宮さんの奥さんは外人でした。内外の事情に通じ視野も広く、 礼儀正しく、ために式部長という皇室の重要な職につかれて任を全うされた方として、 とくに私は記録にとどめおきます。 たくさんの勲章が胸についた写真が資料室にありますが、 顔はとても上品で気品のある姿がみられます。 老人はこの人のことをよく話してくれます。(井上)
6 浜の遺跡  藤井徳次郎さんの井戸から鎌倉時代の瓦器が出てきている。 この時代はまだ湖だったはずなので、興味深い遺跡である。(滝川)
7 浜の碑  真野水泳場に句碑がある。 高浜虚子の作で、「このあたり 真野の入江や 藻刈船」とほってある。 有名な俳人虚子先生がこの地にこられて、藻刈船をみて、 かつての名勝真野の入江を思い出された句として、 この真野になくてはならない句だと思う。(宮部)
8 真野水泳場  明治のころ浜はまだ水泳場一帯は葦原が多く、 泥もあり水泳場になっていませんでした。 大正の終わりころから昭和にかけて真野水泳場が注目されてきて、 京阪神から水泳客がたくさん来るようになりました。 古さからいくと真野と舞子が伝統があります。 とくに真野水泳場は遠浅で大衆向き水泳場となっています。 地所は神田神社の所有になっています。 近年琵琶湖大橋が架橋され、一年中水泳場の砂浜に人がくるようになってきました。 松の並木も多く一年中景色のよいところです。(西野)
9 琵琶湖大橋  日本一の琵琶湖大橋が昭和39年9月にできました。 1350メートル、あの橋は東西を結ぶためにかけられましたが、 経済と観光の目的をもっているため利用者は多く、 有料になっていますが、4、5年もすると無料になるだろうといわれています。 日本一の琵琶湖に日本一の琵琶湖大橋が虹のように架かっているさまは見事です。 この橋から西の比良、比叡の名山は一望で、 南に遠く大津の街が、東には三上山から沖の島、北に竹生島から伊吹山まで、 かつての歴史を秘めたる近江の山野がみわたせます。 全国からこの橋を見に来て、雄大な眺望に感心して帰ります。 ぼくたちは琵琶湖大橋完成の前日、建設された谷口久次郎知事に喜びの手紙を出しましたら、 開通式の日に次のような知事さんの手紙に接しました。 「─お手紙ありがとう。君たち真野小学校6年の諸君の手紙を読んで、 これほど喜んでくれたことを嬉しく思う。 建設中はいろいろ苦労なこともあったが造ってよかったと思っている。 恐らく琵琶湖大橋が架かって、あの辺一帯は東京のように変化することだろう。 いろんなものを造ってみる、 ところが土地がいくら発展してもその土地に住む君たちが立派ならなければなんにもならない。 よく努力して立派な人になってください。─」とあった。 たしかに知事さんのおっしゃるように、 土地がいくら発展しても住む人が発展しなくては土地についてゆけない。 人間自身が問題だ。ぼくたちは知事さんの手紙を読んで、 明日の真野、堅田、いな滋賀県、日本をになうため、一日一日たえず努力しようと誓ったのである。(宮部)
10 母子草  昔、西江州から東江州のほうへ奉公にいっていた女の子があった。 主人はひどい人で、この子を酷使する。女の子は毎日湖辺へ水を汲みに行くと、 そのたびにきっと対岸の西江州を望み、母を慕って泣いていた。 寒い冬の水仕事は女の子にとっては耐えられない苦しみだった。 ある日のこと、水汲み桶をかたわらにおいて、 女の子は「かあさん恋しい─」と涙を落としていた。 すると不思議、女の子の流した涙が湖水に浮かんで「かあさん恋しい」の水文字になっていた。 そのむこうに七色のにじがかかっていて、 そこに美しい女の人がほほえみながら手招きしていた。 「その水文字に祈りなさい─」と。 女の子は水文字に祈った。するとその水文字はするすると動いて懐かしのふるさとに着いた。 女の子の降り立った湖畔から我が家まで、 全体に白色の綿毛をつけた黄色の草が生えていた。 女の子は草に誘われるように母のいる我が家へ急いだ。 「かあさま、ただいま」と声をかけたが母の返事はなかった。 女の子の帰る前日、母は亡くなっていた。 村人の話では、亡くなった母も女の子を恋しいと思い、 毎日浜辺に出て「わが子恋しい」と泣いていた。 その涙が草になったのだと。そして草の名を「母子草」と名づけた。 この話は民話の形をとっている。 女の子の名前はちさ。にじの中にあらわれた女の人はちさの母の化身とも、 竹生島の妙音天女神であるともいい伝えている。 また女の子が働きに出かけたのは母の病気を治すためだったともつけ加えている。 この民話を素材として映画、童話、紙芝居などがたくさんある。(上原)
11 浮きはえ流しもち  琵琶湖の鳥猟のうち、独特の歴史と伝統をもっているのが「浮きはえ流しもち」である。 古法漁法の技術として民俗学的にも興味をもたれ、 無形文化財に指定しようとする動きもみられる。 現在この技術を保持している人は真野浜の佐野平治さんで、 佐野さんは堅田町の漁業組合長もしている。 「浮きはえ流しもち」とは、はえ(茎)を湖上に流し鳥をとるのでこの名がある。 全く原始的な猟法で太古から続いたと思われる。 記録の上では、鳥類の貢納等で室町時代から古文書にあらわれているが、 もっと古くからあったと推定されている。 まず猟の前日、1キロから2キロまであるつるのようなはえに静岡・和歌山から手に入れたもちを火で熱し、 やわらかくしながら練る。 翌朝、午前2時ごろ、浜の船入れから流しもち船が出る。 冬季の11月から2月まで行うので、寒さが身にしむ。 2、3月の鳥船と湖上の場所割を決め、仕事にかかる。 印の旗をまず湖上に落とし、はえを流す。 ところどころにおとりの木で作った鳥をはさんでおく。 延々1キロから2キロ流す。風の動き、水の流れを考えながらである。 一方水鳥は湖辺のえさを腹いっぱい食べて、湖に帰って仮睡して浮いている。 ちょうどはえと水鳥を垂直に流し、もちにその羽根をつけるのである。 午前5時ごろより夜明けの一瞬、すばやくはえをたぐりあげて水鳥を捕獲する。 2、30羽かかるときもあり、2、3羽というときもある。 長年の勘によって行うのであるから、伝承者でないとうまく行かない。 月のある氷つくような厳しい寒夜が、だいたいよいといわれている。 昔は鳥も漁業になっていたが、目的物が水鳥であるので農林関係の部になっている。 近年この「うきはえ流しもち」を禁止しようとする動きもあって、 古来伝統あるこの鳥猟を残そうと鳥仲間は(県下で10人)努力している。 琵琶湖独特の由緒ある伝統技術を残すことは大切なことで、 永久に保存伝達されることを僕は望んでおく。(岡本)
12 真野の漁師  琵琶湖全域に漁場を拡げ、湖せましと活躍した堅田の漁師はあまりにも有名であるが、 その堅田の漁師の先祖は真野の漁師であるとのこと。 堅田にある古文書に、「真野の漁師、堅田に居初めて漁をし、渡しもりをする。」 という記事があるが、堅田の地突きが出来ないころは真野の湖辺で漁師が盛んであった。 平安時代の末から鎌倉時代にかけて、堅田漁師が台頭してくると真野の漁師もその一群となって活躍する。 堅田漁師の区分は西の切が大網、小糸、東の切が流し釣り、立場は流しと釣りであった。 立場は沖の島、伊庭立場で、真野の漁師は東の切に属し、流し釣りが専門だった。 鎌倉から室町時代に至り、堅田漁師が全盛するに及んで、真野の漁師も繁栄する。 大網、小糸、流し釣り、流しもち各種の漁法を使い業に励む。 やがて江戸時代になると、漁業の外にも運送もやり活発に働く。 その名残が浜の船入れである。 明治維新以降になって、この地が水泳場となって観光遊覧地と化してくると漁師も減り、 現在では佐野家、浜本家、藤井家、内池家などである。 それでも四季四季の魚貝は豊富にとっている。 その辺に行くと魚の匂いもし、網干し場や漁師船が船入れにあつて、 在りし日の真野漁師の歴史を物語っている。(西野)
13 琴ヶ浦  真野水泳場を普通、川先きといっているが、古名は琴ヶ浦である。 琴ヶ浦は真野浜から今堅田の浜辺にかけて続いている。 今、琵琶湖大橋ができている処はこの浦の中央にあたる。 この浦の有名な匂当内侍入水の話が伝承されているので記録しておく。 匂当内侍は藤原経卿の女、新田義貞の妻。 後醍醐天皇のころ、延元元年5月、足利高氏が反旗をひるがえし、 新田義貞は京都・兵庫に戦ったが、利なくこの年の10月、 皇太子恒良親王、尊良親王をつれ越前に下るとき、 匂当内侍を琴ヶ浦の苫屋にとどめられる。 内侍は3年の間この地にて義貞の帰りを待つが、 不運にも新田義貞は延元3年7月2日、越前藤島の地にて戦死。 それを聞いた匂当内侍は発狂し、9月9日、義貞のあとを追うため琴ヶ浦に入水自殺する悲話である。 月のよい晩、たもとに石をいっぱいつめて、 笛を吹きながら湖に身を投げた匂当内侍は年わずかに22才であったという。 いまも琴ヶ浦の森、琵琶湖大橋の近くに内侍の霊は残っているのである。(井上)
14 真野川の合戦  真野川周辺で起こった歴史上の合戦について、時代別に記録してみようと思う。 平安時代の末ごろ、平治元年(1159)平治の乱がおこり、 源義朝が京都で破れ真野川近くで合戦する。 平清盛の追手のために兵を多数失い、この地より船を出して東国に逃れる。 寿永3年(1184)、木曾義仲、平家の軍を真野周辺で追撃し、 京都に入る。のち、瀬田・粟津の戦いで破れ死ぬ。 このころ、源義経、京都鞍馬からこの地を通り、鏡山で元服する。 南北朝時代、延元3年(1336)、新田義貞一行、北陸に落ちる。 室町時代、戦国の世、文明11年(1479)、佐々木六角の武将、 多賀高忠、真野川をはさんで合戦に及び敗走する。 永禄11年(1568)、真野城主真野十左衛門元貞、この地で浅井・朝倉の軍と戦い破れ、 真野城焼失する。真野の多くの民家も焼ける。 元亀2年(1571)、織田信長、比叡山延暦寺を攻め、そり堂塔をことごとく焼くに至る。 真野川周辺の天台宗系の寺社、大野坊、普門坊なども続いて焼き払う。 この時、真野坊焼き払いのため、古文書、寺宝の多くを焼失する。 天正元年(1573)、足利義昭、織田信長に反し、真野川水域に立てこもる。 このとき、織田信長の先軍は、陸路羽柴秀吉、海路明智光秀であった。 義昭は真野川南流をうまく利用し、水城を作って防戦したが破れ、 真野から途中に至り宇治に逃げる。そして死ぬ。足利幕府が亡んだわけである。 天正10年(1582)、豊臣秀吉、明智光秀の軍、天王山で戦い、 明智治政の湖西に軍馬が動く。その後、 江戸時代にいたって真野川一帯は合戦なく現在に至る。 この真野川周辺の歴史もまた、近江真野の歴史であった。 平安時代から鎌倉、南北朝、室町にかけて日本歴史が物語っているような戦乱の歴史であった。 まして、京都に近く、その影響もかなり受けている。 しかし、真野川周辺に住んでいた真野の人たちは、 古代から中世、近世にかけて、先祖の遺産を守るために田畑の営みに努力するのであった。 かつて戦乱に巻き込まれた真野川に水泳場ができ、 日本一の琵琶湖大橋が架かった。 昔日の面影はどこへ行ったか。明日の発展が心強いのである。(岡本)

その他の目次

1 はじめに
2 佐川の記録 1 金の茶釜 2 山の神 3 粽たべ 4 竜王さん 5 妙見さん参り 6 八大竜王 7 殿墓 8 渡月さん 9 佐川の恩返し 10 佐川の象 11 金くそ 12 黒い土
3 大野の記録 1 知らん坊の神様 2 よろ昆布 3 とんど 4 お精霊さん 5 光明遍照 6 屋敷藪 7 大野の迷信 8 大野の方言 9 庚申さん 10 銀ぎつね 11 明治のころ 12 大野の用水 13 大野のみみずく 14 チャンギリ 15 怒りん坊の神様 16 お寝坊の神さま 17 どんどの火の玉 18 水木 19 しる田 20 大野の祭り 21 石碑 22 皇子塚 23 家の名
4 家田の記録 1 正院坊 2 家田という名 3 家田の生活 4 お火たき 5 家田の庄屋 6 家田の古墳 7 伊勢講 8 お百灯 9 愛宕講 10 牛さま 11 筒入れ 12 明智祭り 13 融さま 14 宮の森
5 谷口の記録 1 庚申塚 2 谷口の古碑 3 善い神 悪い神 4 桜塚 5 越路古墳 6 もち堀り
6 中村の記録 1 中村の八幡さん 2 中村の瓦 3 中村の迷信 4 地蔵盆の夜 5 四ッ角の地蔵さん 6 新堀 7 真野川の歴史 8 中村の病院 9 中組 10 川と名 11 湯あげ 12 豆はまめ 13 四の宮 14 稲荷山古墳 15 一本松 16 星の学者 17 中村の水害 18 中村の用水 19 中村の藪
7 普門の記録 1 豪恕大僧正 2 上の神田神社 3 井戸の鳥 4 神田の蛇池 5 普門坊 6 牛の刻まいり 7 宮参り 8 神輿と鏡 9 十夜 10 瓢箪池の話 11 金毘羅祭り 12 大塚山古墳 13 六体地蔵 14 普門の字の名 15 馬場地蔵 16 豪恕さんと悪人 17 二条のお池参り 18 墓坂 19 普門の道 20 ごままき 21 神田の石灯ろう 22 十人衆 23 普門の遺跡 24 普門の迷信 25 よい花、悪い花 26 曼陀羅池 27 曼陀羅古墳
8 沢・北村の記録 1 神田神社 2 伊勢講 3 ずっかい 4 多度参り 5 十七夜・さんやれ祭 6 神宮寺の鐘 7 稚児と駒 8 毘沙門様 9 病気なおし 10 おぼうしん 11 えべっさん 12 真野の入江 13 榛原小学校 14 沢の八幡さん 15 ぎょうじ塚 16 歯車工場 17 真野小学校 18 真野小学校の校長先生 19 真野荘 20 真野の古歌 21 真野の宮座 22 真野城 23 沢の遺跡 24 北村の遺跡 25 一本松経塚 26 北村の墓地 27 北村の裏手開発 28 真野駅
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