歴史資料から見た真野
眞野風土記
これは真野小学校の結城実誠校長が、昭和33年6月に書かれたもので 数ページの小冊子のため全文を掲載させていただく。 現物は滋賀県立図書館にあるが痛みがひどく、 コピーか何か対策をされた方がよいと思われる。 原文は縦書巻頭
鶉なく 真野の入江の 濱風に 尾花波よる 秋の夕暮 (金葉集 源俊頼朝臣)本文
1 はじめのことば私が、真野にきてまだ間のない頃、子どもたちとまんだら山にのぽった事がある。 その時、一人の子どもが「先生、昔戦争で武士がかくれた岩穴があそこにあるぜ。」と話しかけた。 私は不思議な事もあるものだと思ってそこへ案内されて行って見ると、それが有名なまんだら山の古墳であった。 「そうか、ここが昔武士が戦争でかくれたところか」「そうです」「だれにきいたの」と尋ねると、みんなそういう。 「お父さん」「兄さん」中には「先生」という子どももある。 学校へ帰って聞いて見ると、大人も子どももそんな事を考えている人が多いようである。 そういう私も小さい頃近くの玉専寺山のくずれた古墳をそれと教えられた。
私はその時、これはいけない、社会科の教科書にも立派に大昔の人々の生活の中に古墳の事がのっている。 その最もよい地域の材料が使用されていないどころか誤って考えられている。 なんとか一つ真野の歴史を調べて見たいものだと考えて、それから村誌があると耳にしたので、さがして見たが見当らない。 中村さんがよく研究しておられたと聞いては、その資料を求めたが得られず、 どこかに古文書がないものかと調べて見たがそれもなし、 しかし、教育上このままにしてすてておく事も出来ず、何とかしなければならないと考えた。 それからだんだんと古墳の調査を始めた頃、佐川で発掘された旧象化石を見出すことが出来た。 これに力を得て真野にはこんな立派な古文化財がある。 よし、一つ物的証拠すなわち我々の祖先の遺物を集める事によって、 真野の歴史を明らかにしたいものだと考えて有志の方方や、 子どもたちの協力によって資料を集めて見ると不思議に各時代のものが何かある事が分った。 しかし、集めた史料はバラバラで、そままでは歴史にならない。歴史は何よりも人間の歴史である。 人間の生きた生活の歴史である。それは生き生きと動いて、たえず発展してやまないもので、 このバラバラの史料をつなぎ合わせて生き生きと動かせて見なければならない。 歴史は人を作る。真野の歴史を考究することによってよりよい真野の人を作る。 たしかに真野は過去に於いて湖西唯一の文化の中心であった事は事実で、 古墳時代の古墳を見ても、大和、平安時代の古歌を見ても分る。 私は決して過去の歴史をくりかえす事を望んではいない。 今は二十世紀の半ば、原子時代である。
さらに輝しい世紀の後半を前にして、私たちは、正しく強く生きぬくべき使命を帯びている。 ささやかながら、この資料が正しい勉強の糧となり、 更には今後皆さんの研究によって真野の歴史がより明かるくなれば幸甚の至りである。
真野小学校在職中御交誼下さった方方に「真野風土記」一編を贈り挨拶を兼ね、序にかえる。
昭和33年3月 結城実誠
2 眞野風土記年譜
年代 | 資料 |
---|---|
1旧象時代 100万年前 | (1) 佐川より旧象化石発掘 (2) 家田より鹿の化石発掘 (3) 普門、大野、北村、谷口、佐川より淡水化石発掘 (4) 谷口より昆虫化石発掘 |
2原始時代 紀元前2000~0年 | (1) 普門より石斧、石鏃、石鎗発見 (2) 普門より弥生式土器発掘 (3) 普門、谷口より土錘発見 |
3大和時代 紀元0~700年 | (1) 普門、谷口、中村の古墳より直刀、祝部土器(坏、高坏、?、壺、瓶、装飾付土器等)多数発掘 |
4奈良時代 紀元700~765年 | (1) 万葉集に真野(まぬ)の歌を見る (2) 中村より瓦器発掘 (3) 中村より古瓦発掘 |
5平安時代 紀元765~1192年 | (1) 中村より古瓦発掘 (2) 普門同性坊遺跡より香炉発掘 (3) 歌人大伴黒主の遺跡 (4) 藤原時代の壷発掘 (5) この時代の初期を真野郷、中期を真野荘という (6) 神田神社鎮座 (7) 真野の入江(源俊頼の古歌) |
6鎌倉時代 紀元1192~1333年 | (1) 正源寺の古鐘鋳造 (2) 普門より石釜発見 (3) 真野浜よりスッポンの化石、瓦器の発掘 (4) かめ、すりばち発掘 |
7南北朝時代 紀元1334~1349年 | (1) 上の神田神社修理なる |
8室町時代 紀元1349~1576年 | (1) 谷口より古碑発掘 (2) 真野古歌(従三位頼政) |
9安土桃山時代 紀元1576~1600年 | (1) 真野十左ェ門、浅井氏と戦って敗れる(真野城跡)(真野十左ェ門墓地) |
10江戸時代 紀元1600~1867年 | (1) 享保16年真野甚右ェ門、神田神社に石灯篭を献ず (2) 曼陀羅山に金比羅大権現勧請(かんじょう) |
11明治時代 紀元1867~1912年 | (1) 三宮義胤式部長となる |
12大正・昭和時代 紀元1912~ | (1) 中村要(小遊星などの発見)(中村鏡・反射望遠鏡創始者) |
1 旧象時代(100万年前)
(1) 旧象化石(京大槇山教授同定)
百万年前の真野村は殆んど湖底で、学校裏のまんだら山が小さな島で、 佐川辺りの高地は陸地であった。その頃、象がたくさん住んでいた。 象といっても今、動物園にいるインド象やアフリカ象ではなくその祖先のステゴゾン象、エレハス象と言う象で、 寒いシベリヤ・樺太にはマンモス象が住んでいた。 この象の化石は佐川の藤田市松さんが、明治八年後山14番地に古びわ湖層の山崩れがあった際発見されたもので、 年代は洪積世又は鮮新世と推定され、6、70万年以前のもので、 京都大学槇山教授はステゴゾン象よりエレハス象への移化型ではないかと推定されている。 化石は下顎左半部(第ニ臼歯)で学術上極めて重要な資料となっている。(結城 湖西百万年史参照)
(2) 家田から鹿の化石発掘(同志社橋詰教授同定)
象の住んでいた頃、鹿も住んでいた。鹿といっても今の鹿の祖先であって、 体の構造は大分変っでいた。 標本は家田の鈴鹿竹松さんが古びわ湖層から発掘されたもので、 同地から発掘された貝の化石から推定するとやはり5、60万年以前のものではないかと推定される。
(3) 普門・大野・佐川・家田・谷口・北村より淡水化石発掘(黒田博士同定)
普門・大野・佐川・家田・谷口・北村等より淡水産貝類の化石が発堀される。 京都大学、黒田博士の同定によればオオダニシ、ナガダニシ、イボカワニナ、 ササノハ、タテボシ、セタイシガイ、オトコタテボシ、イケチョウガイ、カラスガイ、 ヌマガイ、セタシジミの11種で、特に面白いのはびわ湖のササノハガイはトンガリササノハガイより進化したもののと想像されていたが、 佐川で森本初枝さんの採集したササノハガイの化石はトンガリササノハガイに近いもので、 進化のおそい貝でも何十万年と言う長年月には幾分変って行くようである。 今後もっと調査すれば他の種類も発見されると考える。
(4) 谷口から昆虫化石発掘
谷口の古びわ湖層から昆虫化石の発見された事は実に興味深い問題であるが、 その地層が開墾によって埋没してしまって調査を進める事が出来ず残念である。
2 原始時代(紀元前2000~0)
(1) 普門より石斧・石鏃・石鎗発見
紀元前2000~0年の頃を原始時代という。 この頃の人々は、石器を唯一の道具としていた。 学校付近からこの時代の石斧(いしおの)・石鏃(いしやじり)・石鎗が発見されているところを見ると、 この頃、真野には既に原始人が住んでいた事は明らかである。 石鏃が発見されたところを見ると、既にその当時の人々が弓矢を用いでいた事が明らかで、 石鎗は繩文時代の早期にすでにあらわれている石器である。 こうして原始人が、石器を使っていのししや、しかなどの動物を捕獲し、 海岸近くでは丸木舟をあやつって洋上にのり出し、 石鎗をふるって積極的に鯨と戦ったその大胆さは実に驚くべきものである。 こうして我等の祖先の活動の姿を想像するだけでも面白い事である。 尚石斧は昭和17年4月、当時の真野小学校長倉見先生が運動場の整理中発見され、 石鏃は京大坪井先生が真野普門(学校西側の畑地より)、 石鎗は西条喜代一さんが沢にていずれも発見されたものである。
(2) 普門より弥生式土器発掘 (同志社大学酒詰教授鑑定)
紀元前200年の頃、弥生式文化時代にはいった。 この頃生れたのは弥生式土器で、それまでは繩文式土器が使用されていた。 繩文式土器は色は大体こげ茶色から黒色で、つくりは厚手のものが多く、 そのために重いのである。まだととのったかまもなく、 また、焼く火も火力が弱かつたのでうすくてかたい土器を作ることが出来ず、 焼きはもろく厚いものになってしまつたのである。
その後、弥生式土器使用民族がはいってくる様になり、 その時代としては上質の土器が現われ、弥生式土器の破片ではあるが普門から発掘されている。 この頃から真野でも稲を作り始めたと想像される。
(3) 普門、谷口より土錘発見
琵琶湖で漁獲することは恐らく原始時代以前より行われていたと想像される。 土錘の発見された事により、恐らくこの時代としては、樹皮のせんいから取つた絲で網が作られたと想像され、 びわ湖漁獲史を物語る資料となっている。谷口方面でこの釜場が発見されている。
3 大和時代(紀元0~700)
(1) 普門、谷口、中村、家田の古墳より直刀、いわいべ土器(坏、高坏、わん、壷、瓦泉(はそう)、 装飾付土器等)多数発堀され普門が最も多く、 馬場正明さんが普門より直刀、鈴鹿米吉さんが家田より壷、 中塚実さんが谷口よりわん、井上太一郎さんが中村より坏を、又北村よりも、いわいべの破片が発見されている。
大和時代の前半を古墳文化時代とも言われるだけあって、この時代の人は死後の生活という考えが強く、 生前に自分の墳墓を深く築く風習が強かった。 真野では普門、谷口、中村にある。 普門まんだら山には石室が縦3.8メートル横1.9メートル高さ2.5メートルもの大きい横穴式のおまんじゅうのような円墳である。 特に大きいのはこの地方の豪族といって、 その当時大へん勢力のあった方のお墓である。 普門の竹薮の開墾地から、その当時副葬したと考えられる大刀や土器(いわいべ土器)か多数発堀されている。 これらの土器は弥生式土器よりはもっと進んだ土器で、坏、高坏、瓦泉、わん、 装飾付土器(仮称)等で特に装飾付土器は今のところ日本で唯一個しか発見されない珍しい古文化財である。
4 奈良時代(紀元700~765)
(1) 万葉集に真野(まぬ)の古歌を見る。
高市 黒人歌二首の内に
いさこども やまとへはやく しらすげの まぬのはぎはら たをりてゆかむ
黒人妻答歌
しらすげの まぬのはぎはら ゆくさくさ きみこそみらぬ まぬのはぎはら
(まぬは摂津武庫郡今の神戸市真野町との説がある)
(2) 瓦器発堀(酒詰教授鑑定)
中村の森広美さんが発堀したもので、古墳時代の須恵器よりは硬質のようである。
(3) 中村から古瓦発堀(宇野技師鑑定)
中村に観音田の地名あり。この時代の軒丸並びにぬのめの瓦発掘される。
5 平安時代(紀元765~1192)
(1) 中村で古瓦発掘(酒詰教授鑑定)
中村観音田から奈良時代と同様に、この時代の軒丸瓦並びにぬのめ瓦発掘される。 恐らくこの寺院は奈良から平安にかけてのものと考えられる。
(2) 普門 同性坊の遺跡
普門まんだら山には同性坊の遺跡があり、同性坊は天台宗三千坊の一つにして、 この地から馬場五州さんの手により金属性香炉二個発掘されている。 同性坊は正源寺がかつて天台宗当時この地にあり、真宗に改宗して現在の地に移ると伝えられている。 同寺には同性坊の本尊を安置している。
(3) 歌人大友黒主の遺跡
大友黒主は不安朝時代の歌人。六歌仙の一に数えられ、滋賀の黒主とも言われ、谷口に遺跡あり。
春さめの ふるは涙か 桜花 散るを惜しまぬ 人しなければ(古今集88)
白浪の よする磯間を こぐ舟の 梶とりあへぬ 恋もするかな(後撰集670)
作歌は多く「御撰集」「拾遺集」「古今集」にある。遺跡はレース工場裏の山地にあり、 同地より発掘された地蔵尊を祭る。また工場東側の水田中の桜は大友桜と言伝えられている。
(4) 藤原時代の壷発掘(酒詰教授鑑定)
谷口の日花勝さんの手によって発掘されたものである。
(5) この時代の初期では真野郷、中期では真野荘と言う。
(6) 神田神社鎮座
神田神社は嵯峨天皇弘仁3年4月鎮座と伝えられる。祭神は彦国葺命である。
(7) 真野の入江
真野の入江は古歌も多く謡曲竹生島には「真野の入江に着きにけり」とあり、 真野水泳場自動車駐車場付近から真野駅北、即ち沢北村の中間、 入江地蔵・入江の桜付近にまで入りこんでいたようで、真野駅売店の地下には入江の杭が残っている。 いづれの時代か発掘され世に出る事を望んでいる。
また沢の西条孝之さん方の庭石は入江の石と言い伝えられている。入江の古歌に次の様な歌がある。
鶉なく 真野の入江の 浜風に 尾花波よる 秋の夕ぐれ 源俊頼朝臣(金葉集)
6 鎌倉時代(紀元1192~1333)
(1) 正源寺の古鐘
正源寺には古鐘がある。正応3年、矢田部宗次作と記され元は神田神社境内にあった。 今から670年前、神宮寺の鐘と伝えられる。なお同寺の本尊は北村昌法寺に安置されている。
(2) 普門から石釜発見(京大坪井先生鑑定)
普門の学校西の畑地からこの時代の前期、後期の石釜が発掘される。 この地は特に考古学上興味のある地点で、地下に貝殻も多く、 貝塚発見の可能性もあり今後の研究が待たれる。
(3) 真野浜からスッポンの化石、瓦器の発掘(酒詰教授鑑定)
真野浜、藤井徳次郎さんの井戸、地下3メートル下から発掘されたもので、 この時代の瓦器とスッポンの化石が同時に同所から発掘された事により、 このスッポンの化石も鎌倉時代のものと推定される。 《鎌倉時代の化石はあり得ない》 しかも、このスッポンの化石を考究して見ると、三匹の一部分である事から、 この時代に既に食糧として使用された事は明らかで、中でも一頭は現在のびわ湖では見られない大型で、 恐らくその頃は今と比べて捕獲数も少なく、いわゆるぬしがいた事が想像される。 《意味が不明》スッポンの化石は石山貝塚から一部分発掘されているが、こんな大量の発掘は全国で初めてである。
(4) 瓶とすり鉢発掘(橋詰教授鑑定)
谷口の日花勝さんがこの時代の瓶の破片を発掘し、中村の森広美さんがこの時代のすり鉢の破片を発掘する。 いづれも厚みがあつく硬質の焼となっている。
7 吉野時代(紀元1334~1348)
(1) 上の神田神社修理なる(元県鈴鹿技師談)
上の神田神社はこの地唯一の重要文化財の建造物で、建徳元年再建され、本殿は室町風の流れ作りできざな所がなく、 実に立派な建物である。本建造物調査のため棟板の紛失したことはかえすがえすも残念な事である。
8 室町時代(紀元1349~1576)
(1) 古碑
谷口の中塚峯次郎さんの所有地から、この時代の古碑が発掘されている。
道海禅門 天文6年4月20日
妙諸禅尼 天文6年6月1日
道明法師 天文21年正月22日
妙諌禅定尼 慶長5年8月12日
(2) 真野古歌
この時代の古歌
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
源頼政(新古今集)
9 安土桃山時代(紀元1576~1600)
(1) 真野十左衛門元貞(真野家の遠祖による)
真野十左衛門元貞は元亀・天正の頃、真野北村に城を構えた。江州の浅井氏と戦っで敗れた。 城と言っても元亀天正の頃であるから、 天守閣を備えているような整備されたものでなく、先づ砦か塁位であったろうと思われる。 城跡は今は竹藪と松林となっている。元貞の墓は五輪の塔で、 その台石には西養坊の三字があり昌法寺裏の墓地にある。
10 江戸時代(紀元1600~1864)
(1) 石燈籠2基
神田神社にはこの時代の石燈籠が2基ある。
亨保16年5月 真野甚右衛門
元禄3年4月 真野又兵衛
(2) 金比羅大権現
曼陀羅山金比羅権現は文化12年天台宗豪恕大僧正の開眼によるもので、 頂上からの絶景はこの大権現の美をそえている。
11 明治時代(紀元1868~1912)
(1) 三宮義胤(男爵)式部長となる。
三宮義胤は天保14年12月24日真野正源寺で生まれ、梅田雲濱、瀬三樹三郎等と交友あり。 東伏見宮にしたがって英国に行き、滞欧11ヶ年、明治13年帰朝し、明治28年式部長となる。 勲功により特に明治29年男爵を授けられた。
12 大正、昭和時代(紀元1912~)
(1) 中村要
中村要は、明治37年4月真野中村に生れ、京都同志社に学び京大天文学教室に入り天文の研究に従事する。 すばる星を21個観測し得る鋭眼を有し、中村鏡、反射望遠鏡製作の本邦先駆者である。 主なる業蹟をあげると、
1 小遊星エロスが連星状でかつ自転する事を発見
2 天体発見数は変光星1、彗星2、小遊星9、計12個、冥王星の発見は僅少の時間差でトンボー(米)に名誉をゆずる。著書も多い。
結び
とりわけこうした古文化財的な知識のないものが、大胆にもこんな大きな夢を見て、 これが実現をはかろうとすることは、実に厚顔、暴挙の感をおぼえるが、 幸いにもこうした方面の学者並びに有志の方々の御援助を得て、 真野の歴史について今ここに一応その概要をまとめ得た事は、私の終生忘れる事の出来ない喜びである。
最後に、この調査の校閲にあたり滋賀県産業文化会館宇野技師並びに、 この研究にあたって御援助下さった方々に深く感謝の意を表して筆をおく。
昭和33年 螢飛ぶ窓辺にて 結城実誠