歴史資料から見た真野
第3章 真野北部の物語
真野普門の中野清明さんが真野北の冊子に載せられた文書で、 浜に関するところを引用させてもらう。真野北部の地勢
~地図の等高線をなぞってみると、120メートルの線で、 はっきりと山地と平地に分けている。 この120メートルライン上に、北学区の各町に隣接する曼陀羅池、宮池、新池、 それに向陽公園の池とな瓢箪池があったことは特筆すべきことなのかも知れないが 瓢箪池を除く他の池は、防火、灌漑用水池として現在も大切に管理されている。 この等高線をヒントに、もう少し視点を変えてみよう。
ドショボ谷(同性坊谷)
向陽公園の池は昔の瓢箪池の名残りである。 ローズタウン開発前は、うっそうとした山林に囲まれ、何かひきつけられるような神秘さが漂い、 河童の伝説も残っていた。 この池も谷を堰きとめた用水池で、谷の名をドショボ谷と呼ばれていた。 平安時代より天台三千坊の一、同性坊が近くの丘陵にあったので、 この山をドショボ山、一帯の谷をドショボ谷とつい最近まで呼んでいた。 蓮如上人がこの地を訪れた当時、同性坊の寺務をとっていた権律師光俊が、 蓮如上人に帰依し名を慶了と改め真宗に改宗した。 慶了の出家前の子道意がこの同性坊をびわ湖畔に移した(永正元年一一五〇四)のが、浜の正源寺となる(寺伝) この谷の側斜面は団地開発前の土地台帳には十五~二十坪位のこま切れになった番地に割られ多くの所有者があった。 これらの多くは現在の浜・北村方面の方たちの先祖が住んでいたとされる。 口伝によるとこのドショボ谷に住みついた祖先たちは、 びわ湖の水がひくにつれ、徐々に谷から出て行き、 浜方面或いは堅田方面へと移住していっ(竹のはなの項参照) 同性坊の移転もこの頃かも知れない。 北村の願生寺から真直ぐに浜へ下る道があるが、 以前は大きな飛び石状の石畳が浜へ伸びていた。これはびわ湖の水位が定まらず沼地であった頃、 この石を渡りながら浜辺へ行ったといわれている(現在は舗装されている)湖岸線が定着した時、 浜村は真野の産物を出荷する港となる。浜公民館と東浦団地の間に大きな運河があり、 丸子舟(俗に帆かけ舟といった)が出入りしていた。
120mラインの検証
中野氏のいう120mラインを地形図で実際にしらべて見たのが次の図です。 これに今後資料を付け加えてみたいと考えています。
まんだら池、宮池、(普門)新池、ひょうたん池の位置を記入しました。図をクリックすると拡大できます。


目次
私考愚考 真野北部の物語(歴史と伝承)真野北部の地勢
真野の入江
大村と真(新)村
ドショボ谷(同性坊谷)
竹のはな(花・鼻)
普門庄(ふもんのしょう) 豪恕さん(ごうじょ)