真野北部の物語

「真野北部の物語」は「わたしたちの真野北」に掲載された、 中野清明氏の普門についての郷土史である。 この中で特に興味深かったのは、普門村には大村と真村の末裔が混在しているという話で、 現在もそのような意識は残っているのか聞いてみたいところである。

目次を紹介します。内容については大津市立図書館本館でお確かめください。
真野北部の地勢
真野の入江
大村と真(新)村(引用)
 普門村には、今から千三百数十年前、朝廷の命により開拓に入ったとされる人たちの末裔を真村、以前より土着の住民の末裔を大村と呼ばれ、事実上混住しているが、宮座の乙名(十人衆)の選出は別、神饌を供える祭神も別で当番神主の任期などにも差異があり、左座、右座に別れていた。  昭和中期にこの因習は変ったが、果たしてこの新住民は何処から来て、何処を開拓し、何をするために入植したのだろうか。  言い伝えの年数よりやや年代が上がるが雄略天皇の時、滋賀郡に散在していた和邇部の氏族を真野郷に集住させ、堅田港の管掌にあたらせた。住民の立ち退いた跡は豪族大伴氏、錦織部の人たちに与え住まわせたという。今の滋賀学区一帯であろう。当時の真野郷は極めて狭隘であり、移住者は苦労したと思われるが、この強引な政策の裏には、何か政治的なクサミを覚えるのである。とはいえ、今に残る曼陀羅山古墳群、春日山古墳群を造った和邇氏の力はなお強大であった。  一方で和邇部臣鳥・忍勝らが和邇氏の一族から独立(持統天皇四年-六九〇-)真野 臣の氏姓があたえられて(大津市史)より一層勢力をつけたものと考えればどうだろう (神田神社<真野>社伝によると部下を率いて乗りこんだとある)  真野の姓を授けられた鳥務大肆忍勝は居館の傍にある浄地普門山を宮居と定めて 素盞鳴命を鎮祭して間野大明神として奉齎した(神田神社<真野>社伝)  この神田社の本殿は南北朝時代に再建され重要文化財となっているが、横の森の中に神武遥拝所があり毎年四月、神武天皇祭と称し、村長(戸長=今では自治会長)に就任 の報告祭が行われる。このルーツは忍勝がヤマト朝廷へ真野臣になった就任の報告祭を行ったのが始めかも知れないと考えると筋がとおる。  日本のムラ社会は氏神を中心に動いているといわれる中、これは氏神には関係なく、 畝火(奈良・畝傍)の山の陵(神武天皇陵)に対し執り行われるのであり、カミヨ(神代)が今も息づいているのである。

ドショボ谷
竹のはな
普門庄
豪恕さん

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