交通の要所として栄えた真野

途中から京都北部へ、真野の入江から琵琶湖の水路を経て北陸、東国へ
【顔出し許可を取っていません。不都合があれば連絡してください。モザイクをかけます】

真野四か村の結束

堅田藩領地、天領地、旗本の知行地と支配者が細分化された真野
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古墳・遺跡、日本一の琵琶湖

古くから和歌に詠われ、近代に入っても高浜虚子ら俳句で詠われた風光明媚な地
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真野郷土史を作ろうと思ったきっかけReason

 一つは、父の残した「佐久間家の記録」を編集したことである。 当時、父はワープロ「ルポ」を購入し佐久間家の家系を調べてその記録を残していた。 その記録はワラ半紙に印刷されており紙の変色も始まっていたので、 なんとか冊子にしようとワードで原稿を書き直しpdfファイルにして製本に出した。 360ページ余りで2000円ちょっとで無線綴じの本が完成した。
 この冊子のおかげで自分のルーツが分かり、父母の死後親戚の法事に出席しても失礼のない対応ができた。 この時記録の大切さを実感した。
 もう一つは、大津市立北図書館で真野小学校の後輩が横山幸一郎先生の指導の下「真野のむらのきろく」という卒業文集を残しているのを見つけたことである。 読んでみると、真野について知らなかったことがあまりにも多いことに気づいた。 他にも知らないことがあるのではと、他の資料を探してみたがあまりにも「真野」に関する資料が少ないことがわかった。
 もちろん、いろんな資料に「真野」という地名は出てくる。 しかし、その内容はほんの一部で、真野についてまとめられたものは結城実誠校長の書かれた「眞野風土記」しかなかった。 しかも「眞野風土記」はわずか11ページの小冊子だった。 高柳弘雲氏の書かれた「堅田郷土史」の中にも「真野」についての記載があったが、 この冊子はガリ版刷りの手作り文集で文字の不鮮明な箇所が多く、痛みもかなりひどかった。
 なければ自分で「真野」に関する資料をまとめてみようと思い作り始めたのがこの「私的真野郷土史」である。
 さらにその後、地域活動で浜自治会長、昌法寺の世話方を通して、古文書など多数の資料が保管されているのを見つけた。 ただ、保管されているといっても荒縄で括られて押し入れに放り込んであったり、雨水にさらされたためか紙がくっついた状態で、 このまま放置して置いたらゴミとして処分されてしまいそうな状態だった。
 そこで、できる限り資料をスキャナーでコピーをとり電子ファイルとして保存し、 一方で封筒に整理して後の役員へ保存を依頼した。

昌法寺資料Archives

 昌法寺は現在無住寺で、真野四か村の共同墓地となっている。 そのため四か村の世話方が管理し、法事等は澤村の浄国寺住職によって代理で執り行われている。 この本堂横の物置で見つけた資料は寺関係だけでなく、 四か村が共同で行っていた行事等の記録も残っていた。  一例をあげると、警察関係で盗難記録、神田神社関係、榛原小学校関係などである。

滋賀縣公報

明治19年・20年の公報が559ページ分残されていました。

愚考書

榛原小学校教師の橋本岩記が中村学務委員に宛てて書いたもので、学校に対する不満を並べ立、改善されなければ辞職するいう手紙である。

近江國滋賀郡真野村地籍

地番1番から2285番までが書かれており、分筆されたところが一つもないことと佐久間家の所有者が彦七となっていること、 また459番には「明治6年より同11年まで年期鍬下」と書かれていることなどから、地租改正の原本として作成されたものではないかと思われる。

真野川筋普請所下目論見帳

真野川を四か村で普請するにあたり、どれくらいの材料、人手がいるかを算出したもので、区長の西川友成が滋賀県令松田道之に宛てたもの。

朝鮮人来野御■書兼■書■

享保・延享・明和の年号が見られるが、 実際に朝鮮通信使がこの頃来たのは享保4年(1719)、寛延元年(1748)、宝暦14年(1764)が記録として残っている。 ただ、この辺りは通信使が通った記録はなく、何か負担を負わされたのかは文書が解読できないため不明。

12万日法要

昭和63年11月6日に厳修。父が役員として参加していた。

Learning from History

地域活動Activity

浜地区では自治会役員、真野浜会役員、昌法寺世話方、神田神社氏子総代、地蔵盆係の地域活動があります。
なお、神田神社に関しては、総代をやる前に氏子を退籍したため自治会長・浜会会長の2年間役員として活動した記録をまとめています。

浜自治会会長として

 浜自主防災組織を立ち上げた年で、真野小学校(避難所)までの道を往復しました。 現実的には遠くて幼児や年寄りにはきつい行程です。 途中に湖西線の高架もあり倒壊しているかもしれません。 もっと近くで安全な避難場所確保が必要だと感じました。

#01

真野浜会会長として

森田ビル通商、KURA WOOD WORKSとの契約が進み、その結果駐車場周辺の通路の舗装、鉄骨建物の修理が2社のご厚意で完了した。

#02

昌法寺世話方として

平成28年11月20日、13万日法要に役員として参加。父が12万日法要に参加して28年後に自分が参加するとは思ってもみなかった。

#03

浜南組地蔵盆役員として

数年前から浜自治会館の中に仏壇を設定し、8月23日ではなく土日の都合のよい日に開催されるようになった。 時代の流れとは言え伝統行事の在り方に危機感を持っている。

#04
Traditional Culture

現地調査Field Survey

観光目的ではない、真の現地保全
住んでいるからこそ、知っておくべき地域の伝統文化

真野地図

STEP 01施餓鬼法要

餓鬼道に堕ちた霊や亡者を供養し、救済するための仏教の重要な儀式

 特に浄土宗、真言宗、天台宗で盛んに行われている儀式だそうです。 私も昌法寺世話方のときに初めて知りました。

  • 昌法寺では、2016年には9月23日に法要が行われました。
    前日に三役が買い物を含め祭壇の準備をします。
    北村、澤村、中村は浄土宗なので施餓鬼法要の要領は分かっているため何の連絡もなく準備が進みます。
    浜村の半数は浄土真宗のため見ているだけです。
    手作りの鶴や帆かけ舟などはここを見てください。

STEP 02大友桜

「真野のむらのきろく」から

 普通、大友桜と呼んでいる。大友黒主の姫の桜姫が眠っている墓だと伝えている。 井上仁三郎さんの所有田になっている。 大友黒主は平安時代の歌人で、6歌仙の1つに数えられている。 平安の頃の郷は、南から大友郷・真野郷・小野郷・比良郷で、この地は真野郷に属するが、大友氏の別宅があった様子である。 普通、日本レースの工場の裏手の山を大友山という。桜姫については詳しいことは分かっていない。

  • 大友桜は咲かないという言い伝えですが、2014年に咲いたというニュースが出たそうです。
    しかし、どこを探してもその写真は発見できません。
    見たら分かる情報なのになぜないのか?
    発信方法に気をつけたいものです。

STEP 03知らん坊の神様

「真野のむらのきろく」から

 私たちの住んでいる大野に、知らん坊の神様がいらっしゃいます。 この、知らん坊の神様は、1つの森を大事そうに持っておられます。 村の人がその木を切ったり、その中へ入って荒らすと、お怒りになって、 ひどい罰を与えられるというのです。 村にいろんなことが起こっても、わしは知らんよーと知らん顔をしていらっしゃいます。

  • 森と紹介されていますが、行ってみると竹藪でした。
    竹藪は竹の成長が早いので間引かないと荒れてしまいます。
    見ると適当に管理がされているようで、所有者(?)による伐採はされているようです。
    資料は多方面から見ないと正解はわかりません。

STEP 04神田神社

四か村氏子による境内清掃

 かつては八月末に行われていましたが、昨今の異常気象のため少し暑さの和らぐ九月に移行。 境内を四か村で分担して二時間余りで雑草駆除、伐採等を行う。

  • まだまだ農業関係者が多く、草刈り機持参が多い
    写真は小宮前で昌法寺世話方の清掃担当区域です
    この入口左手に笠木(鳥居の上部)が置かれていて、「手が届く鳥居」として紹介されています

絵地図・地籍図Map

一見は百聞にしかず

神田神社見取図浜自治会所有

真野村絵図昌法寺所有

神田神社北に「真野北村中村の内門村」の地名が見られる

東浦地籍図自作

公図・真野村地籍を参考に作成

他の絵地図

書籍等で顔の出た方々People

星の学者

くわしくはこちらを参照。 「真野のむらのきろく」中村の記録の部に説明があります。

中村要(1904~1932)

尊王攘夷活動家

くわしくはこちらを参照してください。 また、「真野むらのきろく」浜の記録の部にもくわしく紹介されている。

三宮義胤式部長(1844~1905)

浮きはえ流しもち

昭和46年琵琶湖鳥獣保護区域が設定され、この猟法は禁止された。 猟法に関しては「真野のむらのきろく」浜の記録の部にくわしく説明されているので参照。

佐野平治(1903~1979)

郷土史家・教師

「近江郷土史事典」「近江物語」など郷土史に関する書籍を多数著作。 私は真野小学校で美術の指導を受ける。

横山幸一郎(1929~不明)

この辺り真野の入江や藻刈舟

虚子についてはここを参照。 これは私見ですが、虚子は弟子の余花朗(堅田浪乃音酒造8代目の俳号)宅に滞在していた時、 舟で真野浜沖を訪れこの句を詠んだのではないかと思われる。

高浜虚子(1874~1959

施餓鬼法要Memorial Service

くわしい内容は川中常夫著「澤村の記録」に書かれています

帆かけ舟

帆柱を竹串で作っているところ

帆かけ舟

帆は湯葉を使っています。三艘できあがりました

配膳

ご飯が盛られています。たいてい大盛りにされているようです

お供え

ずいきの皮でお供えをつくる

お供え

旗づくり

五色で作った施餓鬼旗

旗

竹串につけてカボチャに突き刺して飾ります

最中

四か村での最中はいつも金時堂で注文しています

お供え配置

できあがりました

知りたい情報Seeking Informations

皇子塚の正確な位置
「真野のむらのきろく」では大野と南庄の境付近のようですが
横山幸一郎先生が亡くなられた年
昔話を研究されている方から知りたいと連絡がありました
昭和51年に大阪教育大学民族研究会作成の「概報真野の民族」をお持ちの方。コピーを取らせてください
真野四か村に関しては川中さんよりコピーをいただきましたが、他地域も知りたいため
「真野のむらのきろく」原本をお持ちの方コピーを取らせてください
北図書館に置かれいるのは再編集されたもので、原本には写真や図版があったのか知りたいため
堅田町の時にあった有線放送の電話帳をお持ちの方、コピーを取らせてください
歴史資料として保管させてください

佐久間塾

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